6弾・5話 歩歌の日常


「この公式はこうやって覚えた方がいいよ」

 二年四組の教室で留美は桂子と睦実と郁子に今度の中間テストの数学の項目を教えていた。

「いやぁ〜、留美の教え方ってほんとわかり易いわぁ。先生よりも丁寧だよ」

 桂子は留美の勉強方を得るとはかどっていいと答えてきた。

「次は歴史か。それが終わったら昼食か」

 炎寿が時間割表を目にして呟く。

「留美ちゃんの勉強方法はいいけれど、わたしとしては何となく物足りないんだよなぁ」

 郁子がぼやくと睦実が訊いてきた。

「もしかして宇多川さんのこと?」

「ああ、まぁ……。だけど歩ちゃんは芸能界デビューして、芸能学校に行っちゃったから」

 中学校の時から住んでいる地域も近いこともあって、郁子と歩歌は友達付き合いしていた。宇多川歩歌は七歳の時に母が急病で亡くなってからタクシー会社勤めの父の二人だけで暮らし、また亡き母譲りの歌唱の才能を持っており人気歌手MOEに憧れて歌手になることを夢見ていた。

 その願いが叶ったのか歩歌は高一の文化祭で他のクラスの催し物であるアマチュアバンドのボーカル代理を音楽プロデューサーの玉城五夢氏の目にとまりスカウトされた。歩歌はこの件で保波高校から東京にある浄美アートアカデミーの高等部に編入し、更に今年四月の半ばに歌手デビューを遂げたのだった。

 ティーンズ雑誌の話題記事や音楽店の店頭にはデビュー曲のCD、都市部の広告で歩歌のパネルが見かけられるという様子だった。

「宇多川さんのデビュー曲は初登場時は二十位だったけど、これから伸びるそうよ」

 睦実がみんなに言った。

「宇多川さん、東京にある芸能学校に変えてから、通勤時間と芸能の授業の忙しいとそんなに関わることが減ってきたんだって?」

 桂子が郁子に尋ねてくると、郁子は苦い表情をして答えてくる。

「仕方ないよ。歩ちゃんが決めたことだし。毎日は無理でも時々会えるだけでも充分なんだから……」

 半年前までは同じ場所にいたのに、今では別々の所にいる歩歌の件については郁子から見ると何年も前に思えた。


 保波駅より北西から三駅先にあるJR錦石町から歩いて七分の場所にある七階建ての白と灰色の建物、『浄美アートアカデミー』があった。

 ビル街の中にある芸能学校は三歳の幼等部から十八歳までの芸能希望者の通う学舎で、宇多川歩歌はそこの高等部二年の歌手コースに在籍していた。

 各クラスは十人前後の生徒が同じ授業を受けたり歌やダンスのレッスンを受ける。歩歌は日によってだが早く保波市の自宅に帰る日もあれば、次の曲の歌の練習やグラビア撮影で帰宅が夜七時以降になる時もあった。

 五月半ばのある平日、歩歌は玉城プロデューサーが作詞作曲する八月発売の曲の打ち合わせを行(おこな)っていた。錦石町から二つ先のある駅から歩いて十五分先のシーガルレコードの会議室でサングラスに柄シャツにレザーパンツの玉城五夢氏と歩歌、その隣に三十代前半の女性が向かい合って座っていた。

 歩歌の隣にいる女性はマネージャーとなった石童ひばり。歩歌は錦石町の隣にある町の『ファンタジックカンパニー』という芸能プロダクションに所属することになり、マネージャーもつけてもらったのだった。

「じゃ、これから練習してね」

「はい」

 歩歌は玉城氏から次回曲の歌が入ったディスクと歌詞を受け取ると、石童マネージャーと一緒にシーガルレコードを出て保波市まで送ってもらったのだった。石童マネージャーはクールカットボブに楕円眼鏡に赤茶色のジャケットにピンストライプシャツにタイトスカートのいでたちで、歩歌と一緒に歩いていると通行人からは歳の離れた姉妹か叔母姪に見えた。電車に乗っている時も歩歌に今後一週間のスケジュールを伝えて歩歌はスマートフォンのメモ帳を使って入力していった。

 保波駅に着いた時はすでに夜の八時近くで、駅の利用者雲少なく駅周辺の店舗も大方が閉店していた。

「あとは一人で帰れますので」

「それじゃ、明日もよろしくね」

 歩歌は石童マネージャーと別れて磯貝地区ヘ行くバスに乗って、父のいる団地へ帰っていった。磯貝三丁目にある三棟ある団地の真ん中の三階の一角が歩歌の家だった。この日は父が夜勤で出かけており、歩歌は誰もいない室内に入って手洗いとうがい、帰宅後の母の仏壇にあいさつし、簡素な夕食を作ってその後はアイロンがけや洗濯物を畳んで入浴した。

 七歳の時に母が脳出血出なくなってからは父と二人で過ごしてきた歩歌。二人ともなれない家事に手間取ったり歩歌は一人で家にいる時は近所のおばさんが総菜の残りを分けてくれたり、掃除や片付けの仕方を教えてくれた。

 中学生になると両親と姉がいて裕福なデザイン会社の家の田所郁子と知り合って友達になった。進学先の高校も同じクラスでクラスも同じになった時にギリシアで生まれ育った留美もそこにいて……となってからは歩歌の運命は次第に変わっていったのだった。

(わたしは半分妖精で留美ちゃんと一緒に人間界をおびやかす悪と幾度も戦ってきて、歌手になる夢も叶った。だけれど……)

 夢が叶ったのはまだいい。だけど高校一年の秋まで交友していた保波高校の同級生や中学校までの同級生とのやり取り、また近所の住民との交流が少なくなってしまった。一週間の三、四日は夜に帰宅することが多く、朝早く芸能学校に行ったり芸能の仕事で団地を出ているのもあって近所の人と顔を合わせることが無くなってしまった。それで歩歌は団地の住民と対面したとしても、「あら、いたの」と言われるようになってしまった。

 それならまだいい。芸能学校でも歌手コースの同い年の先輩からひがみ妬まれることもあった。その人は中二の時から浄美アートアカデミーに所属していて、後から来て公立高校から転校してきた歩歌が自分より早く歌手になったことで歩歌にダンスレッスン中に足を引っかけてきたり、歌のレッスン中に「うるさい」「なっていない」などと小声で罵ってくることもあった。

 夢の成功には現実の苦難という代償がつきまとうが、歩歌は少数だけど応援してくれる仲間の気持ちを棒にしたくない一心で先輩からの仕打ちや団地の住民から忘れ去られる感に耐えていた。

(お父さん、早く帰ってこないかな……) 

 歩歌は湯船の中でつかりながら父の帰りを待っていた。


 連休二週間後の日曜日、歩歌はこの時は芸能の仕事がオフだった。父はタクシー会社で朝早く出勤で夕方になるまで帰ってくることがなく、歩歌は久しぶりに洗濯物を干したり室内掃除をしたり食糧の買い出しに出かけた。

 この日歩歌は自分が住んでいる三丁目と二丁目が向かい合っているスーパーへ出かけていった。ガーリッシュな普段着にナチュラルメイク、自動車や通行人が行き交う町の中で歩歌は堂々と歩いていた。歩歌は歌手になったけれど、まだ無名の新人の段階なので誰も歩歌を見てもささやくことはなかった。

 三丁目の住民と二丁目の住民がよく利用するスーパーマーケット『アダージョ』。広さは『丸木屋』などのスーパーマーケットと同じだが二階建てで一階は食料品や文房具、二階は下着やインナーなどの衣服売り場になっていた。

 歩歌は野菜や肉を買い込んだ後、父の靴下が三足破れていたことに気づいて二階の衣服売り場に行って紳士用靴下の特売品を買った。エスカレーターは昇りだけで下りは階段となっており、歩歌は階段を下りると丸顔にボブカットにナチュラル系の装いの郁子と対面した。

「あ、久しぶり……」

「こっちこそ……」

 別々の高校になってから、あまり関わりが少なくなっていた郁子と歩歌であったが、芸能の仕事がオフの日曜に会えたのはラッキーだった。

「二日前にようやく中間テスト終わったからさ、新しいデザートを買いに来たのよねー」

 郁子と歩歌は途中まで一緒に帰ることになった。休日の保波市は家の中で過ごしている人が多く、町中を移動している車はバスや運搬トラックや乗用車が見られ、買い出しに行く主婦や一人暮らしの老人に自転車で外出しに来た小中高生がちらほらいた。

「同じクラスの男子が十人ほど、歩ちゃんのデビュー曲を買ったって」

「ああ、そうなんだ。買ってくれて嬉しいよ……」

 郁子から自分のデビュー曲の件を聞いた歩歌は相槌を合わせる。

「歩ちゃん、聞きたいことがあるんだけどね」

「何?」

 郁子が尋ねてきたので歩歌は耳を傾ける。

「あのさ、歩ちゃんが本当に著名歌手になっちゃったら、あたしや保波高校までの友達と疎遠になっちゃうのかな……」

 それを聞いて歩歌は内面動揺した。確かに芸能も仕事もやるようになってからはアクアティックファイター同士である留美たちと関わることはあっても、郁子は一般人だ。中学校からの付き合いとはいえ、歩歌と郁子は会うのが減ってしまった。

 実際幼い頃からのつき合っていた相手が進学・進級・卒業などで疎遠になってしまった人の話はよくあることで、父は亡き母との結婚の件で裕福な実家の親姉兄と連絡を取ることはなかったし、浄美アートアカデミーでも浄美以前の学校の友人と疎遠になった同期生や先輩もたくさんいた。

「わたしは……郁ちゃんと疎遠になったりしないよ。それに芸能界って個人の人気と実力次第で浮き沈みのある場所だから、郁ちゃんたちが思っているより早く普通の生活に戻るかもしれないし」

 歩歌がそう言ったその時だった。ヒュルルホー……と風の音がしたかと思うと、郁子の体が前のめりにぐらついて目の前に自動車が飛び出してきてキキーッ、と耳をつんざくようなブレーキ音が周囲に響いた。

 周囲の人々と黒い乗用車の運転手が目を見張ると歩歌と郁子は道路に出る寸前の歩道近くの垣根に転がり込んでいて、自動車に轢かれずに済んだのだった。

「だ、大丈夫か?」

 ドライバーの男は刈り上げ頭にアロハシャツとグラサンのチンピラ風にいでたちだが郁子と歩歌に声をかける。

「だ、大丈夫です……」

 歩歌はドライバーや通行人に返事をする。歩歌は郁子が前のめりに倒れて自動車に轢かれそうになった時、咄嗟に郁子の腕と肩をつかんで引っ張り、その勢いで垣根に転がり込んだのだった。

「歩ちゃん、ありが……」

郁子が起き上がって歩歌に礼を言おうとした時、郁子は声を失う。歩歌の左ほおと左手の甲と左脛に垣根の枝で引っ掛けた傷がついていたのだ。


 歩歌と郁子が事故に遭いそうになったことを聞いて歩歌の父と郁子の両親が駆けつけてきて、歩歌のケガは浅いものだったが歩歌の顔に傷がついたことで歩歌親子と郁子一家、ドライバーは現場に来た警官との示談を行(おこな)った。

「すみません、本当にどうしたらいいものか……」

 ドライバーの男は歩歌親子に頭を下げ郁子の両親もドライバーの男に白い眼を向けていた。娘の郁子は助かったからともかく、歩歌の顔に傷がついたのはドライバーの男の非だと。

「いや、今回は偶然の事故だったからあなたは悪くないですよ」

 歩歌はドライバーの男にそう諭した。

「けどな歩歌、顔に傷がついたんじゃ仕事に支障が出るだろうし……」

「お父さん、メイクと肌色の絆創膏で隠すから。もう終わりにして」

 歩歌が父にそう言うと、郁子一家も警官もドライバーの男もそれで済ませることにした。警官もドライバーも去っていき、郁子一家も歩歌親子と別れて帰ることになったのだが……。

(だけど、郁ちゃんが自動車にはねられそうになった時、透明人間が郁ちゃんの背中を押したような感じだった。わたしとの距離があったのもあるし)

 連休の宿泊の夢に出てきたマダム=テレーズが教えてくれた〈禍を起こす者〉が携わっているのでは、と歩歌は悟った。


 その日の夜、歩歌は貝型通信機シュピーシェルで留美から〈進化の装具〉が発動して、留美と神奈くんに危害を加えてきた〈禍を起こす者〉の配下と戦ったことを教えてもらった。貝型通信機シュピーシェルの上蓋に留美の顔が映し出されていた。

「留美ちゃん、〈進化の装具〉が発動して敵を倒したのか。具体的にはどんな効果が?」

『まず衣装が変わって能力も上がって、全体的に変わったって感じ』

 留美からの話を聞いて歩歌は自分の両耳の縁にはめてある白い飾り石に金色のイヤーカフに触れる。いずれ自分も進化するだろうと。


 その翌日歩歌はアートアカデミーで授業を終えた後、マネージャーの石童が歩歌を迎えに行き、石童マネージャーは歩歌の顔の絆創膏を目にして顔をしかめた。

「ちょっと顔の、どうしたのよ!」

 石童マネージャーに訊かれて昨日の出来事を詳しく教えた。すると石童マネージャーはこう言ってきたのだ。

「歩歌ちゃん、友達を助けたかったのはわかるわ。だけどその人はあなたにまだ頼っていたい任せたいという甘えが大きすぎるのよ。

 あなたは、まだ知れ渡ってない新人だけど、あなたの顔の傷は友達のせいで出来たのよ。次に会ったらはっきり言いなさい。『わたしとあなたは違うからこれきりにしてほしい』って」

 石童マネージャーにとっては歩歌に対する気づかいでもあったのだろうが、歩歌はマネージャーの冷たい言葉に思わず黙りこくった。

 その日は次回曲の練習だけで撮影とかの顔に関わる仕事ではなかったので安心したが、歩歌は石童マネージャーの言葉が離れなかった。

(わたしは本当に気にしてないのに。石童さん、あんな言い方しなくてもいいじゃない。まるで郁ちゃんのことをないがしろにしているようじゃない……)

 歌の練習から帰ってきた時、保波駅の人は少なく店も閉まっていた。磯貝地区行きのバスに乗って団地まで帰って降車した時だった。

 ヒュルルホー……とまた風が吹いてきて、歩歌には「家には帰らせない。用を果たしてからにしろ」と聞こえた。今夜は風が少ない筈なのに、歩歌の周囲の風が激しく渦のように囲っていた。そして風は歩歌をさらって給水タンクのある屋上まで飛ばしていったのだった。タンクの点検以外は誰も入れることのない屋上はだたっ広く、タンクのある場所を除いては金網も柵もないので正に死闘場であった。

 暗い夜空に浮かぶ三日月が照らす中、歩歌は自分を攫った風が模るのを目にしたのだった。