浅葱沼氷雨乃の文学の館


1弾・1話 いつもの日々


「起立、礼、さようなら」

 今日も何事もなく授業が終わり、掃除とHRも終わって三年四組の生徒たちは通学バッグを持ってクラブ活動へ向かっていった。

 二十二席ある席の前から三番目の真ん中の一伊達稜加(いちだてりょうか)も通学用の茶色いメッシュ加工のスリーウェイバッグをリュックにして背負う。稜加の二つ後ろの席の百坂佳美(ももさかよしみ)も通学に使っている灰色のドラムバッグを持って、立ち上がろうとしていた。

「よっちゃんは今日はクラブだから、帰りは遅いんだよね」

 稜加は佳美に訊くと佳美は軽くうなずく。

「うん。バレーボール部のレギュラーで、夏の県大会が最後の活躍どきだしね」

 佳美は一六三センチの背丈に長い髪をポニーテールにして、切れ長の眼に小高い鼻に細長の唇に細長い顔のバレーボール部員。稜加は佳美より七センチほど低く、天然パーマの髪をショートにして、垂れた眉に楕円型の眼に小さい鼻に楕円型の唇、やや丸型の顔に標準より細めの体型だが、佳美とは親友である。

「稜加はいつもの通り、小学校に行って弟と妹のお迎えと家の用事、だよね?」

「うん……」

 稜加は中学三年生になってもクラブ活動をしていなかった。いや、正しくは出来なかったのだ。稜加の両親が亡き祖父から受け継いだ店の稼業をこなしている間は、稜加が小学生の弟妹の世話と洗濯物をしまったり夕食準備といった家事を担っていた。

「よっちゃんはいいよ。お父さんは会社勤めのサラリーマンで、お母さんは専業主婦で一人っ子だし」

「んー、でも親は勉強の方にやかましいからなぁ、わたしんとこは。あっ、じゃあクラブに遅れるからまた明日ね」

「うん、また明日ね」

 稜加はクラブへ向かう佳美を見送ってから昇降口のある一階へ下りていった。

 稜加の通う栃木県の南西部の地域にある町立織姫(おりひめ)中学校は町の東部に位置し、周囲には住宅街と小山の森があり、春の半ばとなる四月下旬の今は、生徒たちはクラブに勤しんでいる。校庭では陸上部がランニング、野球部が新入生に部の規則を教えていたり、体育館ではバレーボール部がレシーブやトスの練習、卓球部がラケットを持って素振りの練習、音楽室では吹奏楽部が楽器の練習する笛やラッパの音が聞こえ、理科室では科学部が電気の強弱の実験を行(おこな)っていた。

 稜加は校舎の三階にある三年生の教室から一階の昇降口に着くと、下駄箱から通学用の茶色のローファーを取り出して上履きと履き替える。とことこと校門へ向かっていると、サッカーボールが目の前にはずんできて、稜加はそれを見て思わず後ずさりした。

「あー、わりぃ、わりぃ。大丈夫か?」

 ボールを追いかけてきたのは、稜加と同じ町の近所に住む玉多峻生(たまだとしき)だった。峻生は体育の従業で着る学校指定の黒いジャージと体操着とハーフパンツではなく、サッカー部の練習用の白いユニフォームを着ていて、その上から赤い〈13〉のビブスを着ていた。

「一伊達、ケガはないか?」

「い、いきなりだったからびっくりしたよ。ケガはしてないけどさ……」

 稜加は怒ってはないけど、少しビビりながらも峻生に言った。

「今日も弟妹の迎えと家の用事か? 親が共働きとはいえ、つれないよな」

 それを言われて稜加は沈黙した。そもそも稜加は小学六年生までは千葉県の幕張に住んでいたのだ。だが、小学校の卒業式から二日後に栃木県に住む祖父が脳出血で倒れ、父は勤めている証券会社を一週間ほど休んで、祖父の元へかけつけたが、祖父は発症して五日後に亡くなり、祖父が経営していたクリーニング店は近所からの評判が良かったため、父は脱サラをして祖父の店を継ぎ、母ともめたりもしたが、稜加の弟の小学校と妹の幼稚園の修了式の後に栃木県に引っ越ししたのだった。稜加は小学校時代の友人と別れることになったのは悲しかったが、父には逆らえず今の中学校に入学したのだった。初めて出会った同級生が近所の玉多整骨院の医師の息子の玉多くんだった。

「そっ、それじゃあわたし帰るからね」

 稜加は玉多くんに言うと、校門を出て弟妹のいる小学校へ向かっていった。

 空は明るく雲が浮き、太陽が地上を照らしていて、小山の木々が緑色に茂っていた。町は歩道付きの二車線の道路で、稜加が住んでいる地方都市は電車やバスの交通が少なく、自転車や自動車で移動する人が多かった。

 和風や洋風といった住宅街は下校中の小学生を目にし、事故や犯罪者予防のため、小学生は三人以上で登下校する規則があった。

 織姫中学校を南下して七分の場所に、稜加の弟妹が通うが織姫小学校が見えてきた。校庭に青い屋根の体育館と灰色の三階建て校舎。校舎の屋上は夏の授業で使うプールになっており、ランドセルやデイパックを背負った小学生たちが校舎を出る中、昇降口で待っている男の子と女の子が稜加を目にして、駆け寄ってきた。

「あっ、りょーねーちゃん」

 長い天然パーマの髪を青いシュシュでツインテールにしたジャンパースカートの女の子が稜加に近づく。

「リョーねえ、いつもより五分遅くねーか? 晶加(あきか)がソワソワしてたまらなかったんだぞ」

 短く刈った髪にパーカースウェットにカーゴパンツ姿の男の子が稜加に憎まれ口を叩いてきた。

「はいはい。五分遅れてごめんね」

 稜加は晶加の手を引いて、家に帰ろうとする。弟の康志(やすし)も姉の後についていき、三人で小学校から西へ八分の住宅街へと帰っていった。

 一伊達姉弟の家はえんじ色の屋根にダークオークの板壁に三方がツゲの垣根に囲まれた平屋の一戸建てで、庭は小さいが金属製の物置小屋と洗濯物を干す竹の柵と合歓の木がある。両親が営んでいるクリーニング店は家から歩いて五分の二車線道路に面した場所にある。稜加は鍵をかけて玄関の引き戸を開くと康志と晶加を家の中に入れる。

「ちゃんとうがいと手洗いをするのよ」

 続いて稜加も家の中に入り、手洗いとうがいを済ませると両親の寝室兼居間の窓を開けて、洗濯物を取り込んで一旦居間の窓の縁側に起き、家の中に入って自分の部屋に入って黒いブレザーと赤いリボン付きの白いシャツと黒白の千鳥格子のサイドタックスカートの制服を脱いで、普段用のチェックのシャツと茶色のキュロットに着替えて、康志と晶加のおやつのミニクリームパンを台所から出して与えると、稜加は洗濯物をてきぱきと畳んで誰の物になるように分ける。それが終わると台所に行って流し台の中の皿や茶わんなどの食器を洗って金属かごの中に入れた。皿洗いが終わった後は、廊下などの床板の雑巾がけをし、雑巾がけが済むと自分の部屋に戻って、今日の宿題と授業の予習復習を始めた。勉強は好きではないけれど、補習や追試は受けないようにしていた。

 稜加が自宅学習している頃は、居間では晶加が夕方のテレビアニメを見ていて、康志が宿題の後に漫画を読んでいたりとしていた。一伊達家は玄関に入ってすぐ曲がるとトイレと風呂場と脱衣所、奥が両親の寝室兼居間、その隣が台所で居間の隣の小部屋が仏間兼客用寝室で、三姉弟の部屋が一部屋ずつある。

 稜加の部屋は風呂場と脱衣所の隣で、水玉のシェード付きの電灯がある白い天井にナチュラルウッドの壁が左右にあり、床には畳が四畳半敷かれ、一つしかない窓にはピンクのボーダーカーテン、窓の下に細長い机と教科書や文具を入れるチェスト、漫画や児童文庫やお気に入りの絵本が入った本棚、他にも三段の小タンスにはハンカチや化粧品などが入っており、押し入れの上段には布団、下段にはプラスチックの衣装ダンスがあり、中に体操着や普段着が引き出しごとに分けられていた。制服はチェストの上のフックにかけ、すぐ着られるようにハンガーでかけていた。

「あーあ、六時半からまた家事か……」

 稜加は呟いた。中三になったばかりで志望校も決まっていないが、勉強と家事の両立が問題だった。

「今年受験生だし、家事との振り分けどうしよう……」

 夕方六時半になると稜加はノートを机上に置いて、また台所に向かっていった。一伊達家の台所は広めのスペースで奥に窓と換気扇と流し台とコンロ。居間の隣となる壁に窓があり、そこから食器を居間にいる人に渡せるようになっていた。他には冷蔵庫と食器棚と戸棚。流し台の下にはマットが敷かれ、流しの棚には鍋やフライパンなどが収納されていた。

 稜加は七時半に帰ってくる両親に代わって夕食作りも日課の一つだった。エプロンをつけて材料を出して皮をむいて刻んだり、炊飯ジャーの米を炊いたりとこなしていた。夜の七時過ぎには食べられる頃合いになり、稜加はみそ汁と白米飯ときょうのおかずの豚肉野菜炒めと大根と白菜の煮物をと水入りのピッチャーを弟妹に運ぶように居間とつながる窓から渡して運ばせた。

 両親の寝室にもなる居間は七畳間で畳が敷かれ、縁側のある窓と母の三面鏡近くの窓は雨戸を閉めてブラインドで遮られており、他にも大型のテレビと引き出しの多いタンス、父が自分でつけた壁付けの本棚、天井には和紙のシェードの電灯。冬は布団を使うこたつ机には今日の夕食が置かれていた。姉弟がもくもくと居間で夕食を食べていると、玄関の扉が開く音がして、両親が帰ってきた。

「ただいま〜、今日も忙しかったわ〜」

 セミロングの天然パーマの髪を後ろで一つに束ねてカーディガンにシャツとジーンズ姿の母が居間のふすまから顔をのぞかせる。

「あっ。お母さん、お帰りー」

 晶加が帰ってきた母に挨拶する。

「お帰りなさい。夕食先に食べてるよ」

 稜加は母に言うと、母に遅れて父が姿を現す。今年四十三歳になる父は白髪交じりの髪をワックスで固め、つり上がった目に四角眼鏡、大柄ではないが背筋を伸ばして薄手のニットとシャツとチノパンの動きやすい服装で、三年前までは茶色や灰色の背広にネクタイの服装の印象が強かったのが、今は活動性のある服が当たり前になっていた。

「稜加、康志、晶加、ただいま。ちゃんと自分で使った皿は自分で運んでいくんだぞ」

 そう言って父は上座に座り、母も父の近くに座って稜加の作った夕食を食べる。康志と晶加は父に言われた通りに自分の使った食器を台所まで運んで行って流し台の中に入れた。

「ごちそうさまでした」

 稜加も立ち上がって食器を重ねて運ぶと、父が言ってきた。

「今日は早く風呂に入りたいから、風呂掃除と湯張りを」

「あっ、はい……」

 稜加は食器を台所に運ぶと、父に言われた通り風呂場の浴槽を磨いた。浴槽は一人だけなら入れる大きさで、シャワーとカラン、木製の風呂椅子と小さなたらいとシャンプーとコンディショナーとボディソープのボトルとあかすりがある。稜加は浴槽の窓に置かれている洗剤とスポンジで浴槽と足場を磨き、シャワーで泡を流してから栓をして湯張りをした。風呂水は熱すぎてもぬるすぎてもいけないようにし、稜加は風呂掃除と湯張りを済ませると両親が食べ終えた後の皿洗いをする。

 皿洗いと湯張りを終えると稜加はようやく自分の部屋に戻って、机下のチェストの二番目の引き出しから無地のルーズリーフ数枚と三十六色のカラーペンを出して、ワンピースやパンツスタイルなどの服の絵をシャープペンで下絵してからカラーペンで色付けする。

 ストライプのシャツにベージュのボレロと緑の台形スカートのコーディネート、花柄のブラウスワンピースにデニムのベスト、ボーダーTシャツにロゴTシャツの重ね着といったコーディネートの絵が描かれ、補足としてコーディネートに合った靴やバッグなどの小物の絵も入っていた。

 稜加はファッションセンスがあり、自分や友達のファッションの研究が趣味で、学校と家事と自宅学習の合間を縫ったこの時が稜加の至福の時であった。

「あーあ、栃木県に来てから自分の欲しい服なんて簡単に手に入らなくなったからなー」

 稜加はため息をつく。新しい服を変えるのは地元のチェーン店の服屋か町内の個人経営の服屋で、稜加はなるべく良質さや色や柄を選んでいた。

「稜加ー、晶加がお風呂に入るから、髪の毛を洗ってちょうだい」

 母の呼ぶ声がしたので稜加は椅子から立ち上がり、しぶしぶながらも風呂場へ行った。

「はーい。今行くねー」

 晶加は八歳とはいえ、まだ上手く髪の毛を洗ったり朝起きた時の髪のまとめ方が出来なかったので、稜加がやっていた。晶加は椅子に座って稜加がシャワーで濡らしてシャンプーをつけて洗っていた。

 夜の九時半頃になると稜加も入浴して、寝る前に明日の授業の準備と布団を敷いてようやく眠るのだった。

 稜加が起きるのは朝の七時頃で、目覚まし時計が鳴ると布団から出て、制服に着替えて通学バッグと体操着の袋を持って居間へ向かう。居間にはすでに父と弟と妹がいて、母の作った朝食を食べていた。幸い朝食と稜加の昼の弁当は母がやってくれていたので、稜加は六時台の早起きをしなくて済んだ。

「行ってきます」

 稜加は弟妹と一緒に家を出て、学校へ向かう道を歩いていった。朝は小中学生が三人から五、六人と登校しており、道路では自動車も職場へ向かう乗用車が多く見られた。

 それが稜加の日常だった。


 四月三週目の土曜日。土日と祝日は学校が休みで生徒たちは家で過ごしたり、クラブ活動で学校に行ったり、友達の家へ遊びに行ったりと過ごしていた。

 稜加は水曜日以外はクリーニング店で働いている両親に代わって洗濯物を干したり、昼食を作ったり掃除したりとしていた。康志と晶加にも掃除を手伝うようにと指示を出し、康志は台所や廊下の雑巾がけ、晶加はほうきがけ、稜加は畳用の紙クリーナーで居間や仏間や姉弟の部屋の畳を磨く。

 康志は仏頂面ながらも雑巾でフローリングの床を磨き、晶加は稜加と一緒にほうきで埃をはく。最後の一部屋である仏間のほうきがけが終わると稜加は晶加に言った。

「後はわたしがやるから、休んでいいよ」

「わかった」

 晶加はほうきとちり取りを仏間の入り口近くに置くと、自分の部屋に戻っていった。仏間は四畳と姉弟の部屋より小さく、窓は常に雨戸と障子窓で閉ざされており、お客さんの布団があるふすまの床間に小さな黒い仏壇が置かれていた。仏壇には二人分の遺影が置かれ、父によく似た老人が祖父の文悟(ぶんご)、隣の優しそうな老女は祖母の利恵子(りえこ)であった。

 稜加は幼少の頃、祖父から「お前は理恵子に似ているな」と言われたことがあった。丸顔に楕円型の眼と口は確かに祖母に似ている。祖母は稜加が小学四年生の終わり頃に腎不全で逝ってしまったが。祖母は大人しくて物腰がよかったと聞かされていたが、祖母と関わったのは夏休みの宿泊ぐらいで、そんなに携わってなかったような気がする。一方で母方祖父母は健在だが、伯父一家と山口県に住んでいるため、そちらと関わる機会は少ない。

 稜加は仏間の埃をはき、畳をクリーナーで磨き終え部屋から出ようとした時だった。

「り……」

 自分を呼ぶ声がして弟妹かと思っていたが、違う気がしてもう一回声がしたので耳を澄ませた。

「近くにいるよ」

 まさか幽霊? 稜加は自分を呼ぶ声が仏間の中にいるとわかると、押し入れを開けて物色したり、仏壇の裏を探したりするも、やっぱり空耳だと思って部屋を出ようとした。

「うえ、うえ」

と、声を聞くと天井を見て、声はここから聞こえてくると稜加は気づいた。

「え、天井裏? まさか、本当に幽霊……」

 でも調べなかったら後で気になってしまうと思った稜加は押し入れから上の天袋から入って調べることにした。一度庭に出て物置から脚立を出して家の中に入れて運び、脚立を立たせると天袋の戸を開けて中に入っていった。幸い稜加の体が入れる程で、埃とクモの巣だらけの天井裏は薄暗かったが、目は利いた。

「あれか」

 稜加は天井裏の中に入り赤い風呂敷に包まれた長方形の包みを見つけ、手を伸ばす。脚立から足を踏み外さないようにして、包みをつかむと引っ張って回収して、天袋から出た。包みは取れたが、稜加の髪と服に埃とクモの巣が張り付いていた。

「うわっ、また仏間を掃除しなきゃ」

 稜加は脚立を片付けて物置にしまい、仏間に舞った天井裏のゴミを片付け、それが終わると赤い風呂敷の包みを自分の部屋へ持っていって中を見た。

 風呂敷を開いてみると、中には小型の薄いピンクの長方形のような本のような物と、透明な板状の物がいくつか入っていた。板状の物は赤や青などの色付きで、表面には火の玉やしずくなどの浮彫が施されていた。触ってみると、ガラスのような透明感に石のような質感であった。

「おもちゃかな。でも何でこの家の天井裏にあったんだろう……」

 稜加は本と板を見て呟いた。その時、康志の声が飛んできて、我に返った。

「リョーねえ、もう昼だぞー。腹減ったー!」

 稜加は本と板を風呂敷に包んで立ち上がると、台所へ向かった。

「今行く!」

 稜加が部屋を出ると、本から稜加が耳にした声が聞こえていたが、稜加はすでに台所で昼食を作り始めていたのだった。