「この公式は……であるからして……」 外は熱気が漂い真夏の太陽が照りつけてきて、アスファルトからは陽炎が出て景色を揺らし、セミがミンミンジリジリ鳴いている。そんな中、一谷稜加(いちたに・りょうか)は塾の夏期講習を受けており四十代の男性塾講師が数学の式の説明をしている。 中三生や三生は進学先の学校で入試合格できるように塾の夏期講習を受ける受験生が多かった。稜加は二列ある席の前から三番目の通路側に座っており、稜加の他に十数人の夏期講習生が座っている。 中学生三年生の夏休み、稜加は手ごわい弟妹のいる家以外の場所で受験勉強に励めるようにと、両親に頼み込んで塾の夏期講習を受けることにしたのだった。お盆期間を除いて七月四週目から八月三週目までの月曜日から金曜日の午後一時半から四時半までの三時間を塾に費やしている。 ヒグラシがカナカナ……、と鳴く夕方の時間帯になると涼しくなり塾生は授業が終わると徒歩や自転車、バスに乗って帰宅する。稜加も駅前の『智阪学院(ともさかがくいん)』から駅の近くに預けている自転車預り所まで行って、数十台の自転車が並んでいる屋根付きの駐輪所から停めてある赤い一台を見つけて盗難防止のチェーンを柱の細枠から外して塾用のトートバッグを前かごの中に入れて防犯ネットをかぶせてから乗って駅から南下した先の住宅街へと向かって走らせた。 夏の夕空はまだ明るく空が白みがかった紫色になって夕日が西の方で揺らめいていた。道路では自動車がのろのろと走り、バス停には白地に紺ラインのバスが乗客が数人ずつ降車と乗車を入れ替えして、キャリーを引いたおばあさんがオレンジに黄色ラインのタクシーを拾って乗り込む。歩道では塾から帰る小中高生が歩いていて、スーパーへ向かう主婦、ブティックのショーウィンドウに飾られているウェディングドレスを見つめるOLらしき女性などの姿が見られた。塾に通いだしてから十日目。この光景を何度見てきたことか。 稜加は自転車をこぎ続け渡良瀬川(わたらせがわ)にかかる中大橋(なかおおはし)にさしかかると深い青の水辺には白鷺、土手で犬の散歩をする老人、遊んでいたけど夕方になったから家に帰る小学四、五年生の男子グループ、水際では丈の長い草が生えて穂先が茶色いガマが風に揺られていた。盆地では暑さが平地の県より増すけど、涼しい北風が熱気を和らげてくれた。 橋を越えると坂と平坦な道が続く住宅街に入り、稜加の自転車は大通りの歩道を駆けていく。大通りにはコンビニや小病院、二階建てアパートの並び、コンビニ限らず文房具屋や生活用品の店もあり、稜加の両親が営むクリーニング店もそこにあった。 大通りのクリーニング店が近くの曲がり角に入って更に庭のあるえんじ色の屋根にダークオークの板壁の平屋の一戸建て、そこが稜加の家だった。 稜加の家は前方を除いてツゲの垣根の囲い、庭には物干し竿と合歓の木、弟妹の小学校の課題用の朝顔の鉢、母が育てているキンギョソウのプランター、父が亡き祖父から受け継いだ松やニシキギの盆栽もあった。 自転車を庭の物置の近くに停めて玄関の引き戸を開けて土間から廊下に上がってすぐ近くの脱衣所の洗面台で手洗いうがいを済ませて、脱衣所と風呂場の隣の自分の部屋に入る。 稜加の部屋は窓もふすま戸も閉め切っていたため熱気がこもり、稜加は出入り口の向かい側の窓を急いで開けて換気して扇風機のスイッチを入れて淀んだ空気と熱気を吹き飛ばした。 二、三十分経ってから部屋の空気の淀みと熱気がなくなって塾の移動による疲れも取れると稜加は窓の壁側にある長机に来て椅子に座って夏休みの宿題の一つ、読書感想文の課題書の途中を読みだす。 「りょーかぁ」 稜加が塾に行く時に使ったトートバッグからピンク色のリボン状の髪の毛に水色の楕円型の眼に白と水色のリボン付きワンピース姿の三等身のマスコットが出てくる。 「どうしたの、デコリ。さっきおやつあげたでしょ」 稜加は課題図書を読みながらデコリというマスコットに返事をする。このデコリというマスコットのようなキャラクターは元々はエルザミーナという世界の生まれの精霊である。何故現代日本の中学生である稜加といるのかというと、彼女の亡き祖母に理由があった。 エルザミーナの世界では数十年に一度、国の一ヶ所に災厄が訪れた時に天からの金の光に導かれた者が救済者になり、必ず現実世界の人間が救済者として選ばれる運命に当たっていた。 今から五十五年前、稜加姉弟や稜加の両親が生まれる前のこと、十五歳だった稜加の父方祖母・菅生利恵子(すがう・りえこ)はエルザミーナの世界に飛ばされた。そこの救済者となって災厄のあった国を救い、災厄が失われると自分の世界に戻っていった。 しかし利恵子が現実世界に戻る時、パートナーの精霊デコリもついていってしまうも、利恵子が使っていた本型の道具、スターターにデコリが宿っていることに気づかずにまた眠りのマナピースを入れっ放しにしていたためにデコリは五十五年間も眠りについていたのだ。 今から三ヶ月程前の四月末、稜加は家の掃除を弟妹と共に終えると謎の声n導かれて仏間の天井裏にあったスターターとマナピースを見つけたのだった。その翌日に昼食の材料を買いに行く途中、交通事故に遭いそうになるも持ち歩いていたマナピースの一つが激しい金色の光を発し、稜加は西洋の王城の一室にいた処、城主である女王の兵士に捕らわれて投獄されてしまうも、持っていたスターターからデコリが出てきたのだった。 しかもその城には稜加の仲間となる王女の従兄弟の青年が稜加を助けてくれたので、稜加はイルゼーラ姫とその従兄サヴェリオと共にレザーリンド王国の災厄を打ち払うために女王の追っ手と対戦しながら、救済者の証のマナピースを持つ仲間を探し出してイルゼーラの継母ガラシャを打ち倒してレザーリンド王国の平和を取り戻したのだった。 イルゼーラはすでに父王と母の妃も故人だったのでレザーリンド王国の新女王になり、レザーリンド王国の災厄を打ち払った非エルザミーナ人である稜加は他の仲間と精霊たちの念によって現代日本の栃木県織姫町に送り帰してもらったのだった。 エルザミーナから帰ってきた時、稜加は交通事故に遭ったことになっていて奇跡的な無傷として終わり、家族や学校の人に迷惑をかけてしまうも引っ越しと中学入学から習慣だった母に代わって受けていた家事の負担が減って、中三受験生になったこともあって受験勉強に身を投じて、学校生活を送る中、エルザミーナに残してきた筈の精霊デコリが稜加の世界についてきており、稜加はデコリの望み「利恵子と共に過ごす」を聞き入れてあげたのだった。 それ以降の稜加は学校休みの日に進学先の高校の訪問、自分以外にデコリの姿を見せないように学校に連れていったり、修学旅行のお供、稜加が自宅学習している時にデコリに児童書や絵本を図書館から借りにと中学二年生までとは違う日々を過ごしてきたのだった。 「稜加、もう六時過ぎているけど利恵子の所へ行かないの?」 「えっ? そうだったの!? デコリ、ごめ〜ん。教えてくれてありがとね〜」 稜加は立ち上がって仏間へ行って仏壇に供えている杯から昨日の白米を台所へ持っていって炊飯器の炊きたてと替えて、仏間へ戻って置いて線香とロウソクに火を付けて金鉢をりん棒で叩く。薄暗い室内で線香の煙が白く漂い、稜加とデコリは合掌して祖父・文吾と祖母・利恵子の遺影に一礼する。 祖母の利恵子は稜加が小四の冬に腎臓病で亡くなり、祖父の文吾は稜加の小学校卒業後に脳卒中で亡くなった。祖父の死がきっかけで父は会社員を辞めて稜加姉弟も千葉県から栃木県の学校に変わったのだった。 稜加が仏壇のロウソクの火を手で振って消すと同時に、ガラガラと玄関の引き戸の音がした。 「ただいまー。先に帰ってきたわよ」 父と一緒にクリーニング店で働く母の知晴(ちはる)であった。母は夕方六時半までに仕事を続けている父と違って、夕食作りのために帰ってきたのだ。 「お母さん、お帰りー」 稜加は母にデコリが動いていることがバレないようにそそくさと移動し、自室に入っていく。以前デコリの存在を知られた時に母や妹はデコリを祖母が遺した人形だと思っているため、デコリが生きている精霊だと騒がれないようにと秘密にしていた。 稜加は自室のふすま戸を閉めると、デコリを離してやった。 「あ〜、お母さんにデコリが生きているってバレるかと思ったぁ。……もうお母さんが帰ってくる前にデコリとおばあちゃんと対面させるのを気をつけていたんだけどな〜」 六月に入って直ぐ受験勉強を始めてから二ヶ月を越え、稜加は夏の間は受験勉強は塾で夏休みの宿題は家でと振り分けていた。 「そーいや随分前だけど、レザーリンド王国じゃあ秋が新学期で夏初めが卒業式や修了式になるんだよね? イルゼーラやサヴェリオから聞いていたけど……」 「それがどうかしたの?」 「だって秋に新学期ってことはさ、上の学校の入試日が春ってことじゃないの。秋に受験勉強始めて春に受験って楽なんじゃあないの?」 稜加はデコリにそう言うが、デコリは首をかしげる。 「デコリ、学校に連れていってもらっても勉強したことないから」 「そーよね。デコリは授業中はいっつもスターターの中にいるしね。あーあ、来年の今頃は陽之原(ひのはら)高校に進学していて夏休みに友達と町へ遊びに行っているといいなぁ」 志望高校の入試日まであと半年先はある。陽之原高校の入試に失敗したとしても、勉強にゆとりのある高校を受けることも考えて。 次の日、稜加は昼食を食べた後は日よけの帽子をかぶって塾用のトートバッグを持ち自転車に乗ってJR駅前の『智阪学院』へ駆けていった。自転車は駅前の預り所に置いて職員の小父さんに預かり料百円を払い、駅の北口から歩いて五分の『智阪学院』に入る。 『智阪学院』は二階建ての小さな建物で、一階が事務室と一般塾生の教室、二階が中学受験クラスの教室と高校受験クラスの教室であった。塾は学校と違って誰がどの席に座ることが定まっていないので、稜加は主に真ん中の席に座って授業を受けていた。 授業は一教科一時間ずつで曜日ごとに教科が異なり、塾生たちは黒板に書かれた本番に出てくる要点をノートに書きとどめる。 午後四時半になり、終了のチャイムが鳴って塾生たちは次々に立ち上がって帰宅していく。稜加もバッグの中を整頓してから帰ろうとした時、出入り口の自動ドアの前に一人の男子が立っているのを目にする。 「あれ、あの人って……」 背が中三の割には百八十センチ近くてひょろ長だが、切れ長の眼に高い鼻に細い口唇、服装は白地に黒いロゴのTシャツと薄手のジーンズと黒いランニングシューズ。髪型は天然パーマだのがやたらと伸びてアフロに見える。 「あっ、待っていたよ。一谷さん」 少年は稜加を目にして声をかけてくる。 「ええと……、確か北中学校の人だよね……?」 「うん。北中の冴草(さえぐさ)ムラート丈斗(たけと)。一ノ瀬さん、来るのを待った」 冴草くんは語尾にクセのある訛りを発しながら稜加に声をかけてくる。稜加と冴草くんは駅の近くまで一緒に歩くことになった。夕方の織姫駅の町中は自動車が道路を埋め尽くし、歩道を歩いている人は少ない。稜加と冴草くんもその一組だった。 冴草くんは父親が日本人で母親がトルコ人のハーフで、中一までは群馬県館林市に住んでいて、もっと遡れば小四まで母親の出身国であるトルコの首都アンカラで生まれ育ったという。 「日本に来るまで苦労したんでしょ?」 稜加は冴草くんに訊いてくると冴草君は「ああ」と答える。 「父さん、若い頃トルコに転勤していて、母さんと出会った。母さん、名士の一番上の娘で、妹二人いて男兄弟いなくて母さんの方のじいちゃんとばあちゃんから結婚、反対された。それで父さん、トルコで暮らすことになった。 アンカラでぼくと妹、生まれた。父さんから日本語や日本の文化、母さんからトルコ語やイスラム教の文化やトルコの衣食住、教わった。十歳の時、上の叔母さんの息子で従弟が母さんの実家継ぐことになった。これを機に、ぼくたち日本で暮らすことになった。 館林、父さんの実家あるトコ。父さんの方のじいちゃんとばあちゃんの他、父さんの兄の伯父さん一家もいた。父さんの実家のおかげでぼくたち日本で暮らし出来た。けど、困ったことあった」 冴草くんがその時の困難を稜加に語り出す。 「父さんの実家、ハムやソーセージなどの豚肉加工食品の製造販売会社。母さんイスラム教徒だから豚肉食べない。ぼくと妹も半分トルコ人だから食べなかった。それに母さんと妹、イスラム教の掟でスカーフ頭にかぶる。それが原因で妹、幼稚園でからかわれた。二年前、ぼくたち引っ越しした。父さん会社を替えて土木会社で働くことになった。母さんはアジア料理店でパート。妹は学校の時だけスカーフかぶらないことにした。半分トルコ人だったから日本のこと、馴染むの時間かかった」 冴草くんは織姫町の住人になるまでの経緯を稜加に語った。すると稜加は苦笑いする。 「わたしだって中学生になる前におじいちゃんが亡くなって、お父さん千葉県の会社を辞めて店継いだんだもの。生まれた時から千葉県で暮らしていたのが栃木県に引っ越すことになったうえ、お母さんも働くことになってわたしが家事と弟妹(おとうといもうと)の世話をする羽目になったんだから」 それを聞いて冴草くんは共感する。 「一谷さんも、ぼくと同じだったんだ。何か似ている感があったんだよね。一谷さん、もしよかったら……」 冴草くんは稜加にこう言ってきた。 「ぼくとお付き合いしてくれませんか?」 それを聞いて稜加は思わずつまづいて転びそうになるが町中のベンチの手すりに掴まって、町の人たちが見たら器械体操しているような姿勢になる。 「いい、一谷さん、大丈夫!?」 冴草くんは稜加に話しかけると稜加はゆっくりと起き上がって返事をする。 「さ、冴草くん、何を……」 「付き合う、っていうのはぼくと一ノ瀬さんの高校受験が終わってから、って意味で……。それまでは同じ塾に通う者同士でいてほしいんだ。それだけのこと」 それを聞いて稜加は胸をなでおろした。 その後は帰宅して二十分休んでから夏休みの宿題に入り、夕食を済ませてから軽く受験勉強をするスタイル。稜加は入浴した後に布団を敷きながら今日の塾帰りの出来事を思い出す。 「稜加、今日の塾の終わりで冴草くんから言われたことを迷っているの?」 デコリが稜加の敷いた布団のシーツしわを伸ばしながら訊いてくる。デコリは稜加が塾で授業を受けている間はバッグの中にいるのだが、冴草くんとの会話を聞いてしまったのだ。 「だけど相手は半分トルコ人でイスラム教徒だからなー。豚肉食べるの禁忌だし。女性の地位低いし」 「エルザミーナの世界でも国や宗教や民族の違い人同士の家もあるよ。エルザミーナの世界ではよくあることだって」 「わたし、今は目的の学校に入るための勉強をしているし、学校だって出席を多くして入学に有利になるようにと専念しているんだけど。まさか同じ塾の受講者から告白されるなんて……」 稜加はデコリにそう呟くとタオルケットを広げた。 その日の夜、稜加は夢を見た。そこには見慣れた顔の人々――。金髪に緑眼のイルゼーラ女王と王室仕えの精霊アレサナ、白い鎧を身につけたレザーリンド王国の兵士たち、中にはエルザミーナの世界に来たばかりの稜加を助けたイルゼーラの従兄サヴェリオもいたのだ。彼らは剣や槍や弓などの武器を持って、何者かに立ち向かうようだった。 ここで稜加の目が覚め、目覚まし時計の文字盤は深夜二時を示し、稜加の近くでデコリがスヤスヤ寝ていた。 (今のは夢!? でも何でレザーリンド王国なの? レザーリンド王国の災厄は打ち払われた筈なのに……) 稜加はこの夢が後で実現しなければいいと願い、またイルゼーラやレザーリンド王国の住人の無事を祈った。 |
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