その1・5話 秘密漏れの前触れ



 土曜日――。この日は学校が休みだった。学の家でも、土日はお父さんも仕事が休みだった。しかし、学の家では、忌まわしい決まりがある。土日でも、午前七時起床とされていて、学と美鈴は自宅学習、お父さんもこの頃は、仕事を家に持って帰ってくる多く、休みたくても休めなかった。少し前までは、接待ゴルフに行くことはあったが、今は呼ばれることはなかった。

(このうち、過労で倒れちまうんだろうか……。)

 お父さんは渋々、ベッドからはいずりだして、起床した。

 お母さんは学と美鈴を起こしに行った。すやすやと寝ている慎は今日は土曜日だったことに感謝していた。……が。

「学―、起きなさい。朝よ。」

 お母さんが部屋に入ってきて、慎を起こした。慎はこの声で夢の世界から現実に戻り、飛び起きた。

「んあ?」と眠たい声を出しながら、お母さんを見た。

「今日、学校休みだよ〜?」

「何言っているの。休みの日でも寝坊はダメ。早く起きて、ご飯を食べて、勉強しなさい。」

 慎はそれを聞くと、わかったように気が落ちた。

(そうか、この家では休日でも平日同然の暮らしをするのか……。)

 慎は思った。自分の家ならいつもなら八時まで寝ていて、起きれば両親のどちらかが作った朝ごはんにありつけて、後は自由にすればいいのだ。せめて休みの日ぐらい寝坊してもいいじゃないかと思いながら、ベッドから出た。


 一方学は、朝七時半に起きた。

「うわっ、寝坊した!」

 あわててベッドから起きて、服を着替えて顔を洗い、台所へ向かった。するとママが朝ごはんのフレンチトーストと目玉焼きを食べていた。すると、いつもなら八時まで寝ている慎が起きてきたのを見て、不思議そうな顔をした。

「どうしたの、慎?」

「ね、寝坊しちゃった。早く起きて勉強しなくちゃ……。」

 するとママは急にきつい口調となった。

「慎、勉強しちゃダメだって言っていたでしょ。」

「っへ!?」と学は間抜けな返事をした。

「せっかくの休みなんだから、もっと寝ていなさい。休むために休日があるのよ。ママがあんたの頃の年は休みの日なんか、勉強いっぱいさせられて、遊びの余裕すら持てなかったのよ。」

「……。」

 ここが自分の家ではなく慎の家だったことを思い出し、学はハッとした。

(そうだった。ここは慎の家だったんだ。勉強しなくていいんだった。それから寝坊も許されていたんだ……。)

 学はそう思い出したまま、つっ立っていた。それから、あることにふと、気がついた。

(そう言えば、慎のお母さんって、セリフは違うけど、言い方がうちのお母さんになんか似ているな……。)

 それから慎のママを見つめた。自分のお母さんは恰幅が良くて真っ直ぐな黒髪をあごのところで切りそろえているが、慎のママは細めの体にウェーブヘアで顔こそは似ていない。しかし何故が親近感を感じるのである。

「どうしたの? つっ立っていて。」

 ママがそう言ったのを聞いて、学は我に返った。

「ご飯食べるなら、食べなさいよね。パパは今日、お仕事で夕方までには帰ってこないから。じゃあ、ママもお仕事行くから。」

 そう言うと、ママはイスから立ち上がった。

「お、お仕事って……?」

「漫画のお仕事。いつものスタジオに行ってくるから。あっ、もうこんな時間。アシスタントのみんな、もうじき来るから。じゃ、もう行くわ。ママ、夕方になったら帰ってくるから。あと、お昼ご飯はテーブルにお金を置いてあるから、コンビニ弁当でも買って食べなさい。」

 そう言うとママは、キャンバス地の大きなトートバッグをしょって、仕事場へと行った。

(そうか、慎のママは漫画を描いていた人なのか。てっきり画家かと思った。でも、絵を描いているのには変わりないんだよな。)

 そしてテーブルに座って朝ご飯を食べ始めた。

(それにしても、慎のママって少し羨ましいな。ぼくのお母さんも漫画家とかだったら、勉強のことなんか気にしていなかったんだろうな〜。)

 食べた後はテレビを見たり、ゲームしたり、マンガを読んでいたりしていた。これがずっとやりたかった生活だったのだ。自分の家では勉強地獄だったが、慎の家では天国に思えた。

「今頃慎は、勉強しているんだろうな〜。」

 つくづく思いながら、学は時計を見た。見ると、お昼の十二時五分前だった。お腹も空く頃だった。そうして学はママからもらったお金を持って、コンビニへと出掛けていった。


 一方、慎のママは一丁目にあるスタジオ・クレッセントで、漫画の作業をしていた。ママは『三日月ルルナ』というペンネームで、あちこちの雑誌に活躍していた。

 仕事場のスタジオは三階建ての増谷(ますや)ビルの二階を使っており、作業場の他に台所とアシスタントさんが寝泊りする部屋があった。増谷ビルの一階はCDショップ、三階は法律事務所である。増谷ビルの他には一階が店舗で二・三階がアパートになっている建物が多い。  十畳の部屋は白い板金の机が四つあり、他にコピー機やスクリーントーンを入れる棚、漫画の資料として使われる背景の写真集や図鑑が棚におさまっている。右奥の六畳間が休憩室でベッド二つとソファベッドが置かれ、左奥が小さな台所である。

 ママのアシスタントは全部で三人。全員女性で、専門学生二人と駆け出し漫画家一人だった。

 ママは主に、下描きとペン入れ、背景などの仕事をこなし、トーン貼りやベタ塗りや消しゴムかけといった作業、それから仮眠室の掃除や料理はアシさんがやっていた。

 ママは高校卒業をした後は漫画家にどうしてもなりたくて、家を飛び出して家から遠く離れた野田市の安アパートに住み、アルバイトをしながら漫画を描き続けていた。

 二十歳の時に若葉社(わかばしゃ)の少女雑誌『月刊少女パラダイス』の投稿でデビューが決まり、それから各々の雑誌で活躍してきたのだった。今では少女漫画に限らず、少年漫画や児童漫画や小説の挿絵も手がけてきて、今に至るのである。二十四歳の時に柏でパパと出会って次の年に結婚して暮らし、もっと広い職場を手に入れるために四方道市の今の職場を買ったのとパパの仕事が千葉市の稲毛区に転勤が決まったのが理由で引っ越したのだった。

 壁の時計が十二時を指し、メロディを流した。

「あっ、もうお昼だ。みんな、昼休みよ〜。」

 ママが言うと、アシさんたちは「はーい。」と声を揃えた。仕事場では、食事は当番制で作るか、誰かが買ってくるか、出前を取っていた。今日は丼屋の出前を取った。

 みんながもくもくと食べている最中、アシさんの一人がママに言った。パーマヘアのポニーテールでチュニックとサブリナジーンズの姿の漫画アカデミーの専門学生である。

「あの〜う、お食事中に失礼しますが、先生。昨日の夕方に慎くんを見たんです……。」

「えっ!?」

 ママが動かしている手を止めた。

「そ、それって、どういうこと? 摩子(まこ)ちゃん。」

「昨日わたし、駅行きのバスに乗っていて、降りる直前に慎くんを見たんです。『花丸塾』という塾のあるビルの前で。そしたら慎くんがスーツを着た女の人と一緒に帰っていったんです。」

「そんなはずないでしょう。うちは習い事なんかさせていないのに……。」

 ママが神妙な顔つきで言った。

「でも慎くんとそっくりの顔でしたよ。」

 アシさんが言うので、ママは動揺した。慎は家にいるはずなのに、夜の駅前にいるなんて……。だとしたら、夕方の駅前にいた慎は誰なのだろう。ママはこの疑問が離れなかった。


 一方、後藤家では学と美鈴が勉強している間、お父さんは気晴らしに散歩に出かけることにした。本当は学も連れて行きたかったのだが、お母さんは反対した。

「あなた、学を外へ連れ出すなんてやめてちょうだい。遊び疲れて勉強できなくなったらどうするのよ。」

と、言うので、お父さんは一人で散歩することにした。休日の住宅街は、家の前で遊んでいる子どもやキャッチボールをしている親子、犬の散歩をしている人が行き交っていた。

(せっかくの休みなのに、かわいそうだなぁ。学も美鈴も。)

 お父さんは前に何度かお母さんに学と美鈴に負担を減らしてやりたいと言ったことがあった。

「なあ、久子(ひさこ)。目標もないのに勉強させるのはちょっとかわいそうだと思うんだが……。そのうち燃え尽きて、疲れてしまうんじゃないか?」

「あなた、わたしはちゃんと目標立てていますよ。美鈴は倉井学園の高等部受験と国立大学の受験、それから一流企業への就職という目標が。学だって私立中に行けば、将来は安心できるわよ。」

「でもお前は子どもの気持ちではなく、自分の世間体を気にしているだけだろ。」

 お母さんがそれを聞くと、ムッとしたように言った。

「あなたはわからないんだわ。真っ当な教育を受けていないから、そんな甘えたことが言えるのよ。第一、あなたったら何年経っても昇格しないし、わたしが税理事務所で学費や塾代を払っているんですからね。」

 お母さんは小学校から有名私立に行っており、高校は有名私立高校の一つ、愛和(あいわ)女子高校に進学し、大学も千葉県有名私立の優高(ゆうこう)女子大学社会学部を首席で卒業して、千葉県の超大型商社房総物産の経理課に就職した。おじいちゃんにとっては娘であるお母さんの優秀な姿が誇りだったという。

 お母さんは二十六歳の時に上司の勧めでお父さんとお見合いしてすぐ結婚した。美鈴が生まれる二ヶ月前までは会社で働いていたが、上司が「育児と勤務の両方は無理だ」と言われて出産退職。その後は美鈴と学を真っ当な人生につけるよう塾や私立学校に行かせ、お父さんの給料では足りない学費の分はお母さんが現在の税理事務所で就職して稼いでいた。最初はパート勤めだったが、教育者・中森賢一(なかもりけんいち)の娘という肩書と学歴が全て有名私立ということもあって、一年という短期間で課長に昇進したのだ。

(真っ当な教育を受けていないから――か。)

 お父さんの生まれは栃木県にある明峰村(あかみねむら)で、実家はニンジンや大根などの根菜を育てる農家だった。しかし、ただ単に親の事業を継いで単調に生きるのが嫌だったため、千葉に行って食品会社に就職した。

 だが、どんなに努力しても成績も給料も上がらず、ずっと安月給取りとなった。同期のみんなは自分の上司となっていき、お父さんはただ頭を下げているしかなかった。

(今思えば、農業を継いでおけば良かったなぁ。)

 そう考えながら、お父さんは近隣公園に入っていった。近隣公園は広く、学校の校庭と同じ大きさの公園で、休みの日は家族連れが多かった。今日は幸い晴れの日で、子どもたちはアスレチックで遊んだり、十五メートルの長さもあるローラー滑り台で遊んでいた。

(学も本当は外で遊びたいんだろうな……。)

 そう思っていた矢先、お父さんは思わぬものを発見した。

 お城の形をしたアスレチックから、学がロープをつたって降りてきたのだ。

「え!? 学?」

 家で勉強しているはずの学がどうして公園で遊んでいるのだろう? 

(いや、もしかしたら学にそっくりの子かもしれない。きっとそうだ。)

 そして、お父さんは思わず声をかけた。

「学!」