その2・4話 卓治おじさん


 時間は少しさかのぼり、千葉県の最北西部。ここは東京の近くの近くで、湾岸部は工業地帯と商業区が盛ん。濃紺の海が見える工業地帯は工場が多く、その内側の商業地区はビルが多い。JR舞浜駅の南口を歩けば、東京ディズニーランド。ディズニーランドはシンボルのシンデレラ城が駅から見える。毎日きらびやかで騒がしい楽園である。

 その北口は商業地区と高級住宅街。その日の駅からベージュのコートを目深にかぶり、長い灰色のコートに大きなトランクを持った女の人が青緑のJR京葉線からディズニーランドへ遊びに来た他の乗客と共に降りた。ディズニーランドに来た人はカップルや親子、高校生や大学生のグループが多く、灰色のコートと帽子の女性はにぎやかな音が漏れる駅を北口に向かい、タクシープールを走る一台のタクシーに乗った。タクシーは女の人を乗せて、ビル街から一般住宅街、そして坂を上った所にある高級住宅街、『サンセットヒルズ』へと走ってきた。

 サンセットヒルズは五〇坪以上の和風や洋風の家が並び、その中の葵平屋根にクリーム色の壁に家の三分の二の広さがある庭とセダンなどの高級車が二台並んでいる家の前にタクシーは止まった。塀は下半分がレンガ、上半分が凝ったモダンの柵が久子伯母さんとママの実家、中森家である。

 その中森邸の中の壁に本棚が設置された広い書斎があり、机も壁に設置され、大画面のパソコンとプリンターと大きな背もたれの椅子。その椅子の上に中森卓治(なかもり・たくじ)がパソコンとにらみ合って仕事をしていた。

 ピンポーン、ピンポーン

 インターホンを鳴らす音がして、卓治おじさん、二十畳もある居間でパッチワークをしていた妻の安理(あんり)、子供部屋で家政婦のヨシさんとままごとをして遊んでいた娘の紗里奈、台所で掃除していた家政婦頭のカヤさんが一斉に耳を傾けた。

「こんな日にどなたかしら……」

 中森家に勤めて四十年になるカヤさんこと清水茅(しみず・かや)さんは灰色の髪を後ろで丸く結わえ、枯れ葉色の着物とかっぽう着を着たベテラン家政婦で台所を出て長いフローリングの床を小走りし、玄関の両開きの板チョコのような扉を開けた。そして雨の中、ワインレッドの折りたたみ傘をさし、帽子とコートを身につけ、大きなトランクを持った女の人を見て、声を上げた。

「ひ……久子さま!! どうしてここへ!?」

 その時、スリッパのパタパタという音がして、家の主、卓治おじさんもかけつけてきた。

「どうしたんだ、カヤさん……って、姉さんなのか!?」

 長身にモデル体型に短い天然パーマに細面の顔と切れ長の眼の卓治おじさんはカヤさんから久子伯母さんに目を向けた。

「ね……姉さん、どうして急にうちに……? お義兄さんと学くんと美鈴ちゃんは?」

 年始のお正月には必ず家族を連れてきた久子伯母さんは今年は農家の正月のため帰されず働かされ、出来なかった。なのに春になってどうして一人でここに来たのか、と卓治おじさんは思った。

「あなた、どうしたのよ?」

 またスリッパのパタパタ音がして、卓治おじさんの妻、安理が現れた。安理は今年四十歳になる卓治おじさんよりも若く、まだ三十代前半で背は一六〇センチ代で長い髪を紺色のヘアバンドでおさえ、白いハイネックシャツよ青いジャンパースカートに大きな目と小鼻と桜色の口紅という卵に目鼻の美人である。

「あなた一体何が……? お、お義姉さん!?」

 安理は久子伯母さんを見て、以前あった時とは違う姿に拍子抜けした。

「姉さん、何があったんだ。いきなり何の連絡もなく、家に帰ってくるなんて……」

 卓治おじさんは久子伯母さんに訊くと、久子伯母さんはヒステリックに叫んだ。

「もうイヤよ!! 農家なんて!」



 慎が栃木県明峰村から帰ってきてから二日後、四方道小学校の始業式が始まり、昨日までの二日間の雨と違って、太陽が照らし、空は雲一つない青で、学校の桜はピンクの雲のような花を咲かせていた。

 在校生は教室の廊下に張り出されたクラス分けを見て、喜んだりがっかりしていた。慎は五年二組で、トミーや夕日、啓治と同じクラスになったのだ。

(学くんはずっとみんなと一緒なんだ)

 その後は校庭で式に参加、その後は各生徒の自己紹介である。

「わたしは山代夕日です。ふたご座のAB型で、趣味はファッションの研究で、将来はファッションデザイナーになろうと思いまーす!」

 二年前からマンションのご近所の夕日の自己紹介は活気があるものだった。夕日はふんわりしたセミロングに卵に目鼻を付けた美人で、今日もピンクのボーダーカーディガンにミルキーホワイトのアンダーシャツ、すそにレースがついた大幅のラベンダー色のプリーツスカートにミルキーホワイトのニーソックス、髪どめはピンクのヘアクリップというかわいらしいものだった。

「岩永智実、あだ名はトミーで、みんなトミーとよんでください。好きな食べ物は天丼で体育と図工が好きです。みんな、よろしく!」

 中学生と思わせるような背格好にスポーツ刈り、スポーツトレーナーとナイロンパンツ姿の慎の親友、トミーの自己紹介も上手かった。それから一人、二人、十人ときて、慎の番となった。

「ぼくは前川慎です。趣味や特技はないけれど、得意な勉強は国語と算数と理科と社会で、みんなは知っているかもしれないけれど、漫画家三日月ルルナはぼくの母で……、えーっと、この学校を転校していったぼくのそっくりさんの後藤学くんとはいとこでした……」

 同級生の多くが慎と学がいとこ同士と聞いて、ざわつかせた。

「後藤くんと前川くんがいとこ!?」

「あー、でもそうかもな。だって二人とも似ても似つかないからな」

 教壇にいた担任の堂ヶ崎(どうがさき)先生が慎に訊いた。

「前川くん、お父さん同士が兄弟で?」

 しゃがれ声を出し、分厚い眼鏡の奥の眼を慎に向けた。堂ヶ崎先生は五十八歳で、白髪混じりのオールバックと深い彫りにかかしのような体つきの先生で、見かけは怖いが気のいい人である。

「あ、あの、ぼくのお母さんが学くんのお母さんの妹で、この間の春休みに学くんがいる栃木県の明峰村に遊びに行って……えーと、それから……」

 慎は自分でも何がいいたいのかわからず口ごもり、先生が止めてくれた。

「前川くん、もういいよ。先生も後藤くんと君が今日いとこ同士と初めて知った。それじゃあ次の人……」

 五年二組総勢三十二人の自己紹介が終わり、その後は帰りのホームルームと下校。慎は親友のトミー、学と仲良しだった啓治、そして同じマンションの夕日と一緒に帰っていった。夕日とはたまに一緒に帰ることが多く、学と入れ替わっていた時は、トミーや夕日とは一緒に下校しなかった。慎の学校では毎年クラブが総入れ替え制で、夕日は去年は朝練と下校まで活動のあるバトンクラブに、トミーはサッカー部、啓治は野球部に所属しており、学と慎とはあまり登下校することはなかった。

「慎くん、おみやげありがとね。わたしとお兄ちゃんと両親でおいしく食べたから」

 夕日は校庭の桜と同じ色のランドセルを背負い、慎に礼を言った。

「慎、おれやトミーにもおみやげありがとな」

 のっぽで浅黒い肌にベリーショートの啓治が白い歯を見せながら笑う。啓治はランドセルではなく紫のデイパックを背負っている。

「慎、今日遊びに行ってもいいか? 今日、母ちゃんが妹の健康診断に行くからおれ一人で」

 二丁目にある和食小料理屋が家のトミーが言った。トミーの父親も町内会に行っているらしい。

「おれも行ってもいい? もっと学との話が聞きたいな」

「わたしも」

 啓治と夕日も言った。慎は一度に三人が来るので驚いたが、今日は両親がそろって留守なので呼ぶことにした。

「わかったよ、昼ご飯を食べてからね……」

 トミーと啓治は昼ご飯を食べるために一度家に帰り、慎と夕日は住宅街の同じ道を歩き、『レジデンスいつくしが丘』に着いた。パパかママの在宅時には作ってくれた昼ご飯を食べるけど、この日はいなくてダイニングに置いてあるお金が置いてあった。これで好きなおかずが買えるけど、物哀しく思えた。その時、インターホンが鳴って、夕日が玄関に入ってきた。

「慎くん、一人? 良かったら一緒にご飯を食べようよ」

「えっ、いいの? こんなぼくに……」

「いいって、いいって。おいでよ」

 慎は夕日の家で一緒に食べた方がいいと悟って、夕日の家の『301号』室に行くことにした。夕日の家の部屋は他の部屋よりも少し広い家で4LDK、ベランダも広い。どの部屋も小ざっぱりしていて、慎は夕日の母親の料理を夕日と夕日の母親と夕日の兄・正(ただし)と食べることにした。

 キッチンの隣のダイニングは机と壁が一体化しており、五人まで座れ、慎は正の隣、夕日と母親がその向こう側に座っている。正は中学二年生でバスケット部の優秀な部員で、自身が通う四方道中学校を県内のベスト4に入れた凄い人である。正はやせ形で一六五センチはあり、顔立ちも女の人のようである。

 慎と夕日と正は夕日の母親が作ったキノコピラフと鶏ささみサラダを食べた。

「おいしいですね」

「あら、ありがとね慎くん。良かったらお昼ご飯や晩ご飯が一人の時は遠慮なく着ていいのよ」

 夕日の母親がにこやかに言う。

「え……、そんなの悪いですよ」

「ぼくは慎くんを近くのコンビニで見かけているけど、コンビニ弁当やスーパーの惣菜じゃ栄養偏るよ」

 正も言った。食事を終えると、慎と夕日はそろって慎の家に行き、その後にトミーと啓治がやってきた。

「これが足利の写真。それから明峰村の写真も」

 慎は夕日たちに足利や明峰村の写真を見せて、どういう場所か述べた。写真はデジタルカメラのデータをパパのPCで印刷し、約五〇枚はある。

「へー、足利って意外と綺麗な町なのね! 動物園とか遊園地とかには行かなかったの?」

 夕日が訊いてきたので、慎は答えた。

「足利フラワーパークに行きたかったんだけど……、ちょっとお金の問題で行けなかったんだよね……」

「でもよ、都市圏外だけど、綺麗な場所に住んでいる親戚ってうらやましくね? おれの親せきは東京とか神奈川とかみんな都市みたいなとこに住んでっからな」

 啓治が言う。学一家の写真を見ていたトミーが訊いてきた。

「学くんの家って、今農家なんでしょ? 農家は大変だっていうイメージがあるけど。ゴールデンウィークなんか種まきや市場出荷で大忙しっていうし」

「ああ、学くんも美鈴さんも伯父さんも肉体労働だけど、会社や塾に行っていた頃よりも辛くない、って言っていたよ。学くんたちって肉体労働派だったみたい。久子伯母さんは別だけど……」

 三人は学一家の中でたくましい家族の中で異様にやつれて顔色の悪い久子伯母さんの顔を見る。

「……確かに。それに慎のお母さんにどことなく似ているな。慎のお母さんと姉妹(きょうだい)なんだっけ?」

 トミーが訊ねると慎は頷く。それからママと久子伯母さんの間には卓治というおじさんの存在がいて、浦安に住んでいることも話した。

「浦安かぁ……。ディズニーランドの近くに住んでいるのかぁ……」

「そしたらいつでも遊べるのかぁ……」

「いいよね、何かそういうのって……」

 啓治とトミーと夕日が卓治おじさんの住んでいる地域をうらやましがる。慎や夕日たちにとってディズニーランドなんて、年に一回か数年に一回しかないのだ。慎も毎年二回は両親そろってかママとアシスタントさんと一緒に行くことがある。

「何でそんなこと考えちゃうかなぁ〜」

――ママの実家では大変なことが起きているのに、と心の中で付け加えて。実際にママの実家では本当に大変なことが起きていたのだ。